あけましておめでとうございます。
といいながら、新年早々に地震や航空機事故で「おめでとう」と言いにくい新年になりました。
実は私は塾が年末年始のお休みの期間に金沢・能登観光に行ってきました。
1/1の午前中に兼六園などの金沢観光をし、
午後は日本海沿いをドライブし、
かほく市(輪島市と金沢市の間にある市・少し金沢に近いです)のイオンモールのマクドナルドにいたときにあの大地震にあいました。
最初の大きな余震でイオンモールの床がバキっと音がして
館内が停電で薄暗くなり、上の階から物が倒れる音、悲鳴のような声、
揺れ動く看板などに身の危険を感じ、外へ避難しました。
丈夫なはずの床がバキっと音がするなんて生まれてはじめてのことです。
そして建物の外に出た直後に津波警報のサイレンが鳴り響きました。
周りにいるすべての人のスマホからも津波警報の警告音が鳴りました。
海から近いイオンモールでしたし、周囲は見渡す限りの平地です。
このままいたら、小さな津波だとしても、到達されたら
波に流されどこかにぶつかって圧死
または息継ぎができなければ溺死
または冬の冷たい日本海の中で凍死
あぁ、もし津波が来たら逃げられないな
こんなところで人生終わるかもしれないなんて想像もしなかったな
警報のサイレンが鳴り始めてからの短い数秒の間に
いろいろなことがよぎりました。
すでに逃げ始める車の渋滞がはじまり、平地に逃げ場はありません。
唯一の助かる可能性があるのは屋上しかありません。
停電でエスカレーターは止まっています。
エスカレーターでは、一階の出口へ向かう人でいっぱいでしたが、
最上階の屋上駐車場にむけて急いで上がりました。
そして屋上に停めてある車の中でテレビをつけた直後に大津波警報を知りました。
東日本大震災のときの大津波の映像を見ている私にとって、恐怖でした。
心臓はドキドキし、冷や汗が出て、
「本当に大津波が来たら、終わりだな・・・屋上の車も流されるかもな」と思いました。
幸いかほく市には津波は来ませんでしたが
大きな余震が何度も襲い、車の中でも大きく揺れました。
広範囲にわたり高速道路は通行止め、
一般道も逃げる車で渋滞・・・亀裂の入った道路は通れません。
地震発生から約2時間後、イオンモールの停電が復旧し
トイレも使えるようになり、
自販機も使えるようになりました。
下の階では、散乱した商品を掃除する店員さんが数人いるだけで
館内はほぼ無人状態でした。
水道管が破損したのか、天井から水が漏れ、フロアの一部が水浸しになっていました。
そんな中、商品の盗難や略奪などは一切なく、さすが日本人だなと感心もしました。
千葉へ戻るための基本的なルートは2つあります。
予定していた北陸道から関越道を通るルートは、北陸道が通行止め、周辺一般道も
富山方面に行くには危険があります。
もう一つ、金沢から白川郷方面を経由し、長野から中央道で帰る方法・・・
これも白川郷インターまでは通行止め、一般道は積雪もあり雪崩の危険もあり通行止め、
そこで、一般道で福井県へ行き、福井から高速道で岐阜県・滋賀県を経て名古屋まで行き、東名高速で千葉に帰ることにしました。
深夜に福井から名古屋に向かう途中、名古屋方面から金沢方面に向かうと思われる救急車と消防車の車列が何度も通りました。おそらく夜明けとともに救出・捜索活動をする車両だと思います。これだけ多くの緊急車両のパレードのような光景も初めてみました。
日本の救出活動の迅速さやレベルの高さに驚きました。
津波警報のサイレンがなったとき脳裏をよぎった「死」
一生忘れません。
日本海でドライブしていたときに、数時間後にこんなことがおきるなんて、
誰が予想できるでしょうか。
この日のことを書き留めておこうと思い、今に至ります。
あの日の判断と行動は、その状況でできるベターなものだったと思います。
石川県・富山県の皆さんは今もライフラインの寸断によりつらく寒い数日を送っていることと思います。皆様が生き残り再起されることを強く願っています。
2024年がはじまりました。
これからも一期一会に感謝し、生きていることに感謝し、
日々、自分ができることを全力で行い、通ってくれている生徒さん・保護者の皆様のお役に立てるよう努力してまいります。
伸学アカデミーでは一昨日から新年の授業が再開しました。
通常通り教室も開いています。
御入会を比較検討中の皆様、いつでもお問い合わせください。
今年もよろしくお願いします。